ラグビーの歴史には、大英帝国の植民地政策とパプリックスクールが関わっていた

英国 - カルチャー

9月20日に開幕したラグビーワールドカップは、日本はもとよりアジア初開催となった。日本代表が優勝候補のアイルランドに勝利したことで、連日ラグビーのニュースが流れ、街ではレプリカの桜ジャージ(ユニフォーム)が品薄になるなど、さらなる盛り上がりを見せている。

ラグビーは、イギリス生まれのスポーツである。ラグビーがどのように誕生し、世界各地に広まっていったのか、その歴史をふりかえってみたい。

ラグビーの始まり

ラグビーは、フットボールから派生したスポーツである。19世紀の初頭から、イギリスの良家の子女が通うパブリックスクールではフットボールが行われていた。当時は競技ルールがしっかり決まっておらず、試合のたびにルールが話し合いで決められていたという。

19世紀中頃から、共通ルールが作られ始めたものの、浸透しない状態が続いた。そして1863年になってようやく、ケンブリッジにおける大学6校の協議により、脛を蹴ること、足を引っかけること、ボールを持つことが禁止というケンブリッジ・ルールが定められた。

これを不服とした名門パブリックスクールのラグビー校などが、1871年にラグビーの競技と連盟を発足。これがラグビー誕生の年とされている。

フットボールに共通ルールがなかったことにも通じるが、19世紀初めのパブリックスクールでは、自治が重んじられ、生徒は放任状態だった。ラグビー校校長に就任したトマス・アーノルドは、教育方針を勤勉、節制、忍耐に切り替え、それに賛同した弟子たちが運動を教育に導入した。運動は、強靭な肉体、忍耐、克己心を生む。特にラグビーのような集団スポーツは、フェアプレー精神、自己犠牲の精神、協調性、集団への忠誠心を養う。

パブリックスクールの生徒は支配階級であり、将来大英帝国の植民地政策、統治策を支える人材であったことから、ラグビーなどの集団スポーツは、国への忠誠心を植え付けるにも重要な意味があった。

出所が一緒だったフットボールはその後労働者階級に広まったが、ラグビーは今でも基本的に中流・上流階級に楽しまれるスポーツとされている。

ラグビーはそういった背景もあってか、イギリス王室との関りが強い。ウィリアム王子もハリー王子もパブリックスクールのイートン校でラグビーチームに所属していた。現在は、エリザベス女王の後を引き継ぎ、イングランドはヘンリー王子、ウェールズはウィリアム王子が名誉総裁をしている。ウィリアム王子はフットボール協会会長も務めていて、イギリス王室は大のサッカーファンということだが、自身はラグビーをプレーしていたのである。

ちなみにエリザベス女王の孫であり、ウィリアム王子とヘンリー王子のいとこであるザラ・フィリップスは、元ラグビー英国チームでキャプテンを務めたマイク・ティンダルと結婚している。

ラグビーの世界各地への広まり

さて、話を19世紀に戻そう。1871年にラグビーの発祥後1883年には、イングランドのほか、ウェールズ、スコットランド、アイルランドの4か国の対抗戦がスタート。1910年にはフランスも加わり、5ヵ国対抗戦が行われるようになった。当時から切磋琢磨していた背景もあり、これら5か国の世界ランキングは、2019年10月2日現在、イングランド3位、ウェールズ2位、スコットランド9位、アイルランド4位、フランス7位と高い。

さきほど、大英帝国の植民地支配に携わるイギリス人の人材育成にラグビーがうってつけだったという話をしたが、植民地での学校教育にもラグビーは取り入れられた。これから開拓していく土地において、体力と頭脳を養い、組織で動く人材を育成するのに適していたからである。

今回のワールドカップ出場国20か国および地域のうち、イギリス系は、実に13か国および地域に及ぶ。イングランド、ウェールズ、スコットランド、そして旧植民地の、カナダ(世界ランキング22位)、南アフリカ(5位)、ナミビア(23位)、ニュージーランド(1位)、オーストラリア(6位)、フィジー(12位)、サモア(15位)、トンガ(16位)、アイルランド(4位)、アメリカ(14位)である。

世界ランキング1位のニュージーランドには、1870年にイギリスで教育を受けて帰ってきた若者によってラグビーが持ち込まれた。現在の人口が約480万人と少ないものの、ラグビーの協会に登録している競技人口は日本の2倍近くになる約16万人と言われている。

ニュージーランドの国中にくまなくラグビーのクラブがあり、国民的スポーツとしてテレビニュースでは毎日のように放送される。有料チャンネルでもラグビーだけはいつも無料放送されるという特別枠だ。自国民の選手の層が厚いうえ、ハングリー精神に溢れるサモアやトンガ、フィジーなどの太平洋島嶼国からの移民、スカウトなどにより、選手に困ることはない。

またチームが強くなるには、先ほどの5か国対抗にあるように、対抗戦が必要不可欠である。ニュージーランドとオーストラリア、そして南アフリカの南半球の3か国にも、古くから対抗戦を続けてきたという背景がある。

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ウィンチェスター・カレッジ

イギリス植民地でなかった日本のラグビー発祥

一方、イギリスの植民地になったことがない日本は、世界ランキング8位である。1980年代から1990年前半にラグビーは日本の人気スポーツになり、ここ数年人気がリバイバルしているものの、マイナースポーツの印象がある日本ラグビーの歴史は驚くほど長い。

1866年に設立の「横浜フットボールクラブ」(現YC&AC)が「アジア最古のラグビークラブ」と英国の世界ラグビー博物館が認定しているのである。これは、1863年のケンブリッジ・ルール誕生と1871年の正式なラグビー発祥の間の時期にあたる。

横浜フットボールクラブは、当時の外国人居留地にいた住民とイギリス駐屯地兵によってつくられたクラブである。地理的には、現在の横浜・中華街のあたりになる。設立メンバーの1人は、チェルナトム・カレッジ在学中に「フットボールベスト20人」に選出された人物。ラグビー校や英国最古の名門パブリックスクールであるウィンチェスター校の卒業生も2、3人いたという。

日本人のチームとしては、1899年に英語教師の指導で慶應義塾の学生がプレーしたのが最古である。横浜市内の日吉キャンパス内に「ラグビー発祥の地」の記念石碑がある。そして、横浜フットボールクラブと慶應義塾のクラブが対抗戦を行ったのが1901年のこと。

このように横浜は、日本ではじめてラグビーがプレーされた土地になる。今回決勝が行われるのが横浜市の日産スタジアムというのも感慨深い。

日本同様、イギリスの植民地の歴史を持たない南米の強豪国アルゼンチン(世界ランキング10位)では、イギリス人に伝えられ1873年にはじめてラグビーの試合が行われた。アルゼンチンでは、1899年に4つのクラブが所属するラグビー連盟が誕生している。

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ウィンチェスター・カレッジ

チームに外国人選手が多いカルチャー

日本代表が強い理由として、外国出身者の多さも言われている。代表31人のうち、外国出身者は15名にのぼる。ラグビーの代表選手になるには、国籍は必要ない。本人(もしくは両親か祖父母のいずれか)が当該国で生まれているか、本人が当該国に3年以上(2020年末からは5年以上に変更)住み続けていれば資格を与えられる。なお度も他国の代表になっていないことも必須条件である。

実はこの「国籍主義」とは違う「協会主義」による代表選手の規定も、大英帝国時代の事情によるものだ。植民地に派遣されたイギリス人が、ラグビーでその国の代表になる際に、それだけのために国籍を変える必要があるのかという議論が起こった。

逆に、植民地出身でイギリスに移ってきた選手もいた。本人が望んだり、チームが望んだりなどさまざまだが、イギリスで代表になることを認めていいのかどうかが当時問題となった。

国籍をベースにしない方が、どちらの場合も都合がよかったので採用されたのがこの協会主義なのである。

ラグビーの発祥、他国への広がり方、ルールはすべてイギリスの歴史と紐づいている。そのなかでこの協会主義は、移民がますます増えていくこれからの時代に適した未来型の考え方なのかもしれない。

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